金子書房『児童心理』2007年8月号 pp. 26-30(特集「読む力・書く力を育てる」)
 
「IT社会の読む力・書く力」
井 上 逸 兵
 
 自分が子どもの頃に持っていなかったものを子どもが手にすると、大人としては不安になるものだ。それが得体の知れないものなら、子どもを宇宙人扱いするところだが、ケータイやパソコンなどの場合は少し違う。その便利さと危うさは大人の方が十分理解している。だからこそ不安なのだ。インターネットが関係している(と報じられる)事件に子どもが巻き込まれるのを見聞きすると、その不安がさらに増幅されるが、それは大人こそがこの道具の危険な側面を知っているからである。子どもの学力低下を嘆きつつも、実はワープロ依存で大人たち自身が漢字が書けなくなっていることに気づいているのと同じ構造がある。
 この小論では、いわゆるIT社会、電子ネットワーク社会における読み書き、コミュニケーションの問題を、特に日本(語)に特有と思われる書く営みを中心に考えてみたいと思う。これらに潜む、本当に危惧すべき問題は何かを考えるための交通整理が目的である。
 
「コミュニケーション革命」
 人類の歩み中で、今我々は何度目かの「コミュニケーション革命」期にあるといっても過言ではない。人類は文字を持つことで、それまで口承で受け継いできた知識を「外付け」の記憶装置に蓄えることができるようになった。紙や印刷術は多数の人たちが同じものを読むという状況を作り出した。さらにラジオ、テレビは文字以外の、かつマスという次元の情報伝達を可能にした
 ことばによるコミュニケーションには物理的な媒体がなくてはならない。それは空気の振動であったり、紙の上のインクのしみの連続体であったりする。物理的な世界に生きている以上、我々のコミュニケーションはそのような物理的な環境や道具立て、いわばコミュニケーションの生態系の中で制約を受け、その変化とともにコミュニケーションそのものも変化する。今我々が遭遇している「コミュニケーション革命」を特徴づけているものは、言うまでもなくインターネットやケータイなどの「電子性(デジタル性)」と「ネットワーク」である。
 この新しいタイプのコミュニケーション活動を考える時、「電子」的であることと「ネットワーク」型であることとの両方を思い起こさねばならない。この二つは相互に関連しあっているが、整理して考える必要がある。具体的には、前者はパソコンやケータイに搭載されている日本語変換システム、つまりワープロによる書く営みが問題の中心であり、後者は電子メールやインターネットにおける読み書きの問題である。
 
電子コミュニケーションにおける書く力
 子どもたちが電子的なコミュニケーションをする際に最初に出会う新しい体験はキーをたたくことによって文字を作り出すという作業と、音を表すかなから日本語の文字に変換するという作業である。
 従来の筆記用具によって文字を「書く」作業とキーから文字を「打つ」作業は、ともに結果的に同じ出力を生み出すが、これらは異なった営みである。脳の中の働きとしては、言語を司る部位と身体運動を司る部位とが密接に関係していることが知られている。手書きは視覚+手運動という二次元の視覚構成的な動きであり、パソコンで「書く」のはキーボードをたたくという両手を使った三次元の空間操作的な動きである(1)。IT時代にむしろ書道や手書きを見直す試みが一方であるのも、前者の運動感覚が薄れていると感じられるからである。
 電子コミュニケーションにおいて書く作業のもう一つの側面は日本語特有のものと言える。アルファベットを用いる言語であれば二六文字という文字の組み合わせから無限のことばを組み立てる(言語学ではこれを言語の二重分節性と呼んでいる)が、それまでだ。日本語の場合はさらに多重である。パソコンでローマ字入力をするなら、まずアルファベットのキーを組み合わせることで日本語のかなの音を組み立てる。それをひらがな、カタカナ、漢字のどれにかに変換する。さらに漢字ならどの漢字に変換するかを選択する。漢字は千年以上前に中国からもらったものだが、中国語では基本的に一文字一音で、日本語の訓読み、音読みのような重層性はない。同音異義語の多さは大人すら悩ませる。IT時代の書く作業はこのような日本語の多重性を意識する作業である。
 やっかいだが、これはむしろ日本語の資産と考えるべきだろう。日本語変換システムは特有のことば遊びを生み出した。誤変換(「パン作った」→「パンツ食った」)、ギャル文字(本来とは違った組み合わせで文字列を作る。女子中高生らがメールで使っていたとされる。例:「おはよう」→「才(よчoぅ」、「例」→「イ歹リ」)、小書き文字(「ぉはょぅ」)や絵文字、顔文字などは、規格内の限られた記号列からの創造性の発現である(2)。どんな言語文化にもことば遊びはあるが、日本語ほど電子コミュニケーションのインパクトが大きい言語はないだろう。(これらのコミュニケーション上の機能については拙著を参照されたい(3))。
 
書くことの身体感覚
 漢字は日本語ワープロ開発初期の頃にはコンピュータとの相性が最悪とされた。表記が多様な上、同音異義語も多い。一方、漢字はとても便利な記号でもある。小さなスペースでその意味を表現できる。日本語話者は漢字の利便性ゆえに文字情報に大きく依存するため、他の言語の話し手と比べて相対的に音の情報への依存が低いとの見方もある。「重複」を「ジュウフク」と読み誤っても視覚的な情報を想起できれば語義の伝達は図れる。日本語の失語症患者は、音を媒体にする脳のシステムが壊れるとかなは読めなくなるが、漢字の方はいくらか保持できていることが多く(つまり、筆談ができる)、一方、欧米人の失語症の場合、音声で失語すると文字でもコミュニケーションできないという(4)。
 IT社会のワープロ世代の場合、これと同じようなことがあるかはわからない。漢字の辞書的知識もワープロに依存してしまうと、読めるが書けない漢字が増えてくるが、明らかに書くことの身体感覚は変化しているだろう。IT社会の子どもたちがどのように日本語を操るようになるかは予測しがたいが、このようなことをふまえて、日本社会全体がこれからの日本語とその使用をどのようにするべきかの議論と判断が重要になる。
 
社会との関わりとしての読む力・書く力
 パソコンなどの電子ツールが同時にネットワークのツールになると問題の性格がかなり異なってくる。
 二〇〇七年四月初旬、言語別のブログ投稿数の調査結果で、日本語が世界第一位であるニュースが流れた。ブログ大国である。『アエラ』二〇〇四年八月三十日号(朝日新聞社)では、ケータイなどで書く行為が日常的になり、さらにケータイで文学賞に応募する若者が増えている様子が描かれている。十代の作家が数多く売り出されているのも、このことと無縁ではないだろう。もちろん商業的な思惑はあろうが、かつてないほどに若い作家たちの活躍が目立つ。朝日新聞二〇〇五年二月一〇日の「十五歳作家の時代 軽さ好む読者、話題求める版元」では、これがワープロの普及と関わりがあることを伝えている。二〇〇六年の「インターネット白書」(インターネット協会監修)によると、自宅でインターネットを行っている十三歳以上の男女の十代の約四割が自分のブログを公開し、約六割が他人のブログを読んでいるという。いずれも、大人の世代より高い割合である。日記は秘め事をこっそり書くものではなくなった。「日記を書いている」というと、今ではほとんどインターネット上に公開していると解釈されるようになった。書くという営みが不特定多数の人たちに読まれる、ネットワークの中におかれることが多くなった。
 電子ネットワーク社会のコミュニケーションの大きな特徴は、超空間性である。小学校でもブログを教育に活用している例は最近では多くなってきた。情報発信することを通して様々な学習活動が活性化されるということだろう。このような場合も、読み手は不特定多数である可能性があるが、書き手は教師や他の生徒も読み手として意識している。顔の見える読み手・書き手であることは社会的なプレッシャーとして機能する。
 しかし、読み手の多数が見えない存在になった時、書く営みは少しばかり異なった性格のものになる。現実世界の空間的近さや対人的プレッシャーから解放され、書くことは即時的な理解や共感を求める方向に向かいやすい。相手が「見えている」電子メールでも、空間を共有する必要はないので、いつでも即座にそばに引き寄せるようにコミュニケーションできる。多数の中から一人を特定するというコミュニケーションの前段階の努力は必要とされない。つねに一対一である。いずれの場合も、「社会」、「コミュニティ」という視点、意識は欠落しがちだ。匿名の誹謗中傷の温床となる危険もある。
 不特定多数に向けられた文章は即時的な理解を要求するものになりやすい。「よくよんで」理解してもらうことは期待しづらい。会話調にもなる。読む力の問題としては、即時的な理解を志向する文章に読み慣れすぎると、伝統的な紙媒体の本を読んで行間を理解することを不得手とするようになることは十分にありうる。それはそれで事実なら残念なことだが、だからといって、今の子どもたちの読む力の減退と見るのは短絡的すぎるというものだ。「活字離れ」ということばが初めてメディアに現れたのは、たとえば朝日新聞なら一九七七年、インターネットのイの字もなかった時代である(5)。今の五十歳代以下はみな「活字離れ」による問題を抱えているはずだが、それを問う声は聞こえてこない。「読む力」もコミュニケーションの生態的変化の影響を受けるのだ。
 IT社会はこれまで誰も経験してこなかった社会である。その中での子どもたちの読む力・書く力に不安を抱くも当然だろう。子どもたちへの不安は、実は大人たちが自分のこととして感じている不安でもある。しかし、人類の歩みを見ても、コミュニケーションの生態系の変化とともに読み書き能力に変化があるのはむしろ当然だ。大切なことはそれがどのような性質の変化なのかを知り、自覚することで、現実社会で「生きる力」にどのような影響がもたらされるかを見極めておくことだ。
 
(1)山鳥重・辻幸夫『心とことばの脳科学』大修館、二〇〇六年
用例はウィキペディアより http://ja.wikipedia.org/
(2)ギャル文字『フリー百科事典ウィキペディア日本語版』2007年5月27日(日)13:49 UTC, URL: http://ja.wikipedia.org/
(3)井上逸兵『ことばの生態系---コミュニケーションは何でできているか---』慶應義塾大学出版会
(4)山鳥・辻(前掲書)
(5)一九七七年六月二十八日夕刊(東京)「広がる社内報のビデオ化 活字離れの戦後っ子に人気 社内報」。