『三色旗』(慶応義塾大学通信教育部)2005年9月号(No. 690)、pp. 17-22掲載 (以下では若干の誤植を修正しています)
 
環境と言語状況の「進化」
 
井 上 逸 兵
 
「社会」から「環境」へ
 筆者は基本的に「社会言語学」の枠組みに収まると思われる種類の議論として、言語と社会の関わりを考えている(つもりだ)が(井上(2003)参照)、社会言語学では、言語は社会との関わりによって、そしてそれによってこそ、よりよくその本質を見ることができると考える。ただし、そこで焦点が当てられる「社会」は、それを構成する人間の様々な属性や資質がその指標とされることが多いように思う。本論では、そのような「社会」を包含し、人間を取り巻くそれより広範囲の諸事象---それをここで「環境」と呼ぶことにしたい---との関わりで言語を見る視点の可能性を考えてみたい。
 むろん、そのように途方もなく多様な事象との関わりをこのような小論で簡単に片付けてしまうのは土台無理な話であることは承知している。可能な一つの議論の、その一片の、そのまた入り口あたりの話になればこの小論の目的は達せれたと考えたい。
 
言語と人間の進化
 言語と環境の関係を考えるのに興味深い視点を与えてくれるのは、近年の言語の起源に関する議論である。言語の起源については、一八六六年、パリの言語学会が言語の起源に関するいかなる論文も受理しないことを決定したことに始まり、二十世紀の初頭から近代言語学の時代を迎えて、まっとうな言語学の議論の中からは姿を消すことになった。なぜなら、この種の議論のほとんどがろくな根拠もない空想の域を脱していなかったからである。
 しかし、近年、考古学的な発見のみならず、脳科学、心理学、人類学、動物行動学などいわゆる認知科学の多岐にわたる発展により、言語の黎明を問うための道具立てがかなり整い始めているという認識が持たれるようになっている。もちろん言語の始まりに関する証拠には直接的に実証されうるものは多くない。つまり依然として推論の域は出ていない。しかしながら、よりまっとうな推論をするための土台にはかなり実証的な裏付けがなされるようになってきたようだ。右にあげたような認知科学の諸分野の知見がそれである。これらは見方を変えると、人間が知性を得、それを進化させ、ついには言語を生み出した環境というべきものを示唆しているように思う。
 
言語−「環境」からの離脱?
 動物にも言語らしきものがある。少なくともコミュニケーションの方法を持っている動物は珍しくない。ミツバチがダンスによって蜜のありかを仲間に知らせたり、サルがいくつかの種類の声によってエサを見つけたことを知らせたり、捕食者に対する警戒を促したりすることはよく知られている。
 しかしながら、動物のコミュニケーションと人間の言語にはやはり大きな隔たりがある。端的にいえば、動物のコミュニケーションによって伝達されることは基本的に眼前のものに限るということである。犬を飼っている人はよくわかっているように、犬も非常に豊かに感情を表現し、人間の発する言葉もかなりの程度に理解する。しかし、いかに高度に訓練された犬であっても、過去のことや未来のことについてコミュニケーションすることはできない。「おすわり」といって今(・)座らせることはできるが、「明日の今頃また座りなさい」という指令を理解することはできない。うれしさをしっぽを振って表現することはできても、「去年の夏休みは楽しかったなあ」と思い出し笑い、ならぬ「思い出ししっぽ振り」をすることはないのである(夢は見るらしい)。
 それに対して、人間の方は過去や未来のことばかりか、あらゆるフィクションがそうであるように眼前にない空想の物語すら語り、理解することができる。ウソをつくこともできる。眼前の、直接の周囲の環境からは離れてコミュニケーションできる、つまり、周囲とは分離した内面の世界をつくりあげることができるのである。
 道具の大規模な貯蔵庫らしき遺跡が発掘されたとしよう。それは単純に考えてもいくつかのことを示唆することになるだろう。
 まず第一に、規模から推察して、何らかの形の協働作業があったと考えられる。そして、協働作業のためにはかなり高度なコミュニケーションが行われたと推論すべきである。進化の過程で言語を生み出した推進力には諸説があるが、協調的であることが進化の競争の中でさまざまな利点をもたらしたという考えはその有力な一つであると思う。
 第二に道具を貯蔵することの意味である。チンパンジーなどの類人猿が道具を使用することができることはすでによく知られている。しかし、人間以外に「明日のために」道具を作ったり、道具をとっておくことが組織的にできる動物はいない。道具を貯蔵できるということは、「明日」の状態をイメージし、目先にとらわれない目的を表象できなければならない。目前の環境から思考を分離させられるところに人間を人間たらしめている知性があるようだ。
 
神話−英知を「環境」におく
 言語と環境の関わりについてのまた別の側面のことを考えてみよう。 
 Gärdenfors (2003)は人間の思考の進化の過程の中で、記憶を外部化する手だてとして神話を取りあげている。以下、彼の議論を取りあげてみよう。
 人間の進化は内面の世界を豊かにし、それを眼前のものからも分離させ表象しうることで高まった。それは言語という手だてを得ることでさらに加速された。神話は集団の英知を記憶しやすい形で言語化したものである。神話はすでに眼前の現実に対応していないものもあるが(昔ここは湖だった、など)、それがまだ身近な環境にある場合もある。神話を介して他者と記憶を共有している時、我々はすでに内面世界の知識を外部においている。知識を伝達しあう一つの可能な方法は、内面世界の表象を創り出すために外部世界を利用することである。彼は作家クリスチャン・ペトリ(Kristian Petri)がボルネオ島のペナンの人たちがいかにジャングルに名前をつけているかについて書いていることを次のように引用している(井上訳)。
 
川の曲がり角は、特別な人やずっと前にあった出来事の名前を持っている。木々、河川、石や岩、すなわちジャングル全体が壮大な文化の風景なのである。それらは秘儀を受けたもの以外には見えない。ジャングルはペナン人の歴史であり、出来事と社会的な関係を語る、生きた記憶なのである。だから、人はジャングルを旅する時、風景をよみがえらす。その名で呼ぶことでそれを新たに創り出すのだ。ジャングルはすべての人々の記憶であり、記憶の方法である。これこそは木の伐採によって引き起こされるもっとも大きな悲劇のひとつなのだ。なぎ倒されるのは、ペナンの人々の食べ物と燃料をうる術ばかりでなく、書き記されていないすべての歴史なのだ。なぜなら、歴史は木々、石や岩、川、滝、によって構成されているからだ。
 
ペナンの人々が木々につけた名前は、環境の中に記憶装置としておかれた歴史である。環境に言語を与える(名付けをする)ことで、人間は知識を蓄えることを可能にしてきた。
 筆者が学生時代のある先生は、コピー機ができて学生の記憶力は減退したと嘆いておられた。嘆くべきことかどうかはわからないが、十分にあり得ることだろう。自ら書くという身体運動を伴って書き写したり、整理しようとした時代とは学習環境が異なっていることは明らかである。むろん、それが知的な後退を意味していることには必ずしもならないだろう。文字の誕生によって人間の記憶の負担は大幅に軽減されたが、その分他の多くの知的営みに従事することができたために、今日の文明の基礎が築かれたと言ってもよい。
 
電子メディア環境における言語
 人間の内面にある知的営為を外部装置にいわば委託することによって、我々の知識は格段に増大した。文字、紙、印刷術、ラジオ、テレビなどの外部装置は我々のコミュニケーション環境を形成し、我々の言語的、非言語的コミュニケーションを大きく変えてきた。
 そして今、我々はヒトの進化の過程の中でもいくつ目かに大きなコミュニケーション環境の革命期に遭遇していると言えるかもしれない。それを特徴づけるものは言うまでもなく電子的なコミュニケーションである。「電子性」は現代の我々のコミュニケーションの環境の大きな特徴である。(以下は井上(2005)の一部を簡略化したものである)
 「電子性」が日本語にもたらした大きな変化の一つの要因は、ワープロやATOKやMS-IMEなどの日本語変換システムである。もちろんそれが搭載されているパソコンやケータイの普及は重要だ。我々の環境の一部として我々のコミュニケーションを大きく変えた。電子メールは多くの人にとってもはや生活に欠かせないものになっている。しかし、日本語そのものにとっては日本語変換システムの普及はさらに画期的なことだった。それはアルファベットでできている言語よりはるかに大きなインパクトを与えたのである。
 初期のコンピュータでは、漢字仮名まじり文を扱うことが難題だった。この困難さのために、日本語をローマ字化すべきだとか、英語に変えるだとか、要するに日本語を捨てなければコンピュータ時代に乗り遅れるというような声があったように思う。しかし、幸いなことに(と思う)、コンピュータの進歩はそのような危惧を無用とした。今や、日本語変換システムはポケットに入るケータイ電話にすら搭載するまでになったのである。
 
環境としての日本語変換システム(ワープロ)が生み出したもの
 ワープロや電子メールは日本人の書くという作業を革新的に変えた。これを生み出す要因はもちろん経済的な要因も含めた複雑な環境にあるだろう。しかし、日本語の使い手という観点からみても重要な変化が日本語そのものに起こっている。たとえば、パソコン常用者の多くがおそらく気づいていることだが、「読めるけど書けない漢字」が増えている人は少なくない。書けなくても、「いいじゃん、入力ソフトが知っている」(篠原一『電脳日本語論』(作品社))という感覚はおそらくパソコンユーザの多くにあるだろう。これはつまり、かつて日本語話者(書き手)の脳にあった漢字辞書が脳からパソコンに移植されつつあるということなのだ。有史以前、口承で様々な知識が伝えられていた頃の人間の脳に蓄積されてきた一部は、文字の誕生によって紙や板などの上に移植された。今度は辞書的な知識すらも脳の外に出ることになる。内面世界の外面化である。
 このことによって日本人、日本語話者が何を得、何を失うかはまだわからない。しかし、おそらく言えることは、漢字は生き残る、ということだ。二〇〇四年、戸籍上の人名用漢字の範囲が見直され、使える漢字が増やされることになった。ハイカラな(死語?)名前は増えても漢字そのものの使用は減らない様相である。手で書くのは大変だが、ワープロ、パソコンを使えばそれほどの労力はいらない。電子メールをもらって、驚くほど(筆者には)難しい漢字を使われて困ることがある。(自分の教養を棚に上げて言うが)それらの漢字は、筆者が書く場合の経験も加味して推測するに、おそらくワープロの変換に依存したものだろう。手書きのものなら漢字にしないような過剰な変換もあるように思う。
 つまり、我々はすでにサイボーグ化しつつあるということだ。ロボットやコンピュータが我々の脳の一部に組み込まれるというと、SFなどの未来物語のように感じるかもしれないが、実はすでにもうその時は来ている。ただそれは頭蓋骨内に組み入れられるのでなく、我々のポケットやバッグに入っている。環境と言語状況は変化し続ける。「進化」と呼ぶべきか否かはわからないが。
 
引用文献
Gärdenfors, Peter. (2003) How Homo became Sapiens: On the evolution of thinking. Cambridge Univerisity Press. 井上逸兵訳『ヒトはいかにして知恵者(サピエンス)となったか』(研究社、二〇〇五年)
井上逸兵 (二〇〇三)「『非言語』と『非指示』の言語学、あるいは非『言語学』」『三色旗』二〇〇三年九月号(No. 六六六) 
------------ (二〇〇五)『ことばの生態系−コミュニケーションは何でできているか−』(慶應義塾大学教養研究センター選書・慶應義塾大学出版会)
 
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