大修館書店『月刊言語』2006年3月号(Vol. 35, No. 3)、pp. 60-7 掲載
(特集・若者ことば大研究)
 
ネット社会の若者ことば
 
井 上 逸 兵
 
 「ネット社会の若者ことば」というお題をいただいた。たしかに「2ちゃんねる」(http://www.2ch.net/)に代表されるインターネット上の掲示板(1)の書き手たちの多くは「若者」と推察される。しかしながら、本当のところはわからない(とすべきである)。特に「2ちゃんねる」は基本的にほとんどが「名無しさん」として参与しているために、年齢や居住地などの個人情報は知り得ないからである。匿名性は電子掲示板上のコミュニケーションの特徴の一つとなっている。
 本稿では、サイバースペースとも言われるインターネット上の空間に飛び交う、(おそらくは)若者のことばを、匿名性が生み出す新しい創作、限定資源からの創造、ビジュアルなコミュニケーションの遊戯性などの観点から概観してみたい。同時に電子メディアによる日本語のコミュニケーションを支える日本語変換システムが日本語使用者の「書く」という言語活動に与える影響についても考えてみよう。
 
一 新しい著作権像
 二〇〇五年を騒がせた話題のうち掲示板「2ちゃんねる」から生み出されたものが少なくとも二つある。一つは「2ちゃんねる」でのやりとりが元となった『電車男』(新潮社)である。ベストセラーとなり、映画・ドラマ化もされた。話の筋としては比較的単純なラブストーリーだが、おもしろいのは「2ちゃんねる」の書き手たち(「住民」、「住人」と呼ぶこともある)が「電車男」に様々な助言を送りながら、その恋愛成就を支えつつ見守るところである。2ちゃんねる独特の表現は不慣れな者には読みづらいが、通読すればそこにある種のコミュニティが存在している感覚を持つことだろう。コミュニケーションの民族誌的に言えば、そこにはスピーチ・コミュニティが存在しており、ネット方言(2ちゃんねる用語など)とも呼びうることばが定着しつつある。一般に方言と言えば「地域方言」、「社会方言」という区分があるが、サイバー「空間」と言われるだけに、これは「地域」と呼ぶべきなのか。
 出版の段になって問題になったのは『電車男』の著作権が誰にあるかということだった。新潮社のこの本には中野独人という著者名が記されているが、それは架空の人物である。『電車男』は2ちゃんねるのコミュニティが生み出したいわば集団的著作なのだ。むろん「電車男」が中心ではあるが、この本の面白みはそれをとりまく住人たちの反応ややりとりである(したがって、そのあたりを映画やドラマ化するのは無理ではないかと筆者は思うが、ヒットして話題を呼んだ)。
 「2ちゃんねる」から発した二〇〇五年のもう一つの重大事件は、「モナー著作権事件」である。ネット上のコミュニティがいつのまにかキャラクターを生み出すということがある。アスキーアート(AAとも)とよばれる、パソコンで使用可能な記号だけを使った絵には、「住人」たちが繰り返し再生産し、なじみとなったキャラクターがいる。「モナー」がその一つである。一連の騒動は、あるレコード会社がそれによく似たキャラクターをCDジャケットに用いたために、盗作だとする「2ちゃんねらー」たちの激しい攻撃を受けたことに始まった。その顛末はここでは措くとして、この「モナー」の著作権者も不明で、サイバーコミュニティが生み出した集団的創作である。
 法的な次元の問題はともかくとしても、特に匿名性の高いサイバーコミュニティでは今後もこの種の新しい著作権が問題になることがあるだろう。「ウィキペディア」(日本語版http://ja.wikipedia.org/)のような集団知とも呼ぶべき情報体もある。
 
二 絵文字、顔文字の役割
 ガンパーズ(Gumperz 1982など)は言語的、非言語的なシグナル、中でもパラ言語が同時進行の発話の解釈を与えるコンテクスト化の働きをするモデルを提示した。「おでかけですか?」という発話も韻律のコンテクスト化によって社交的な挨拶となったり、非難となったりする(井上1999)。電子掲示板以上に多くの人たちに身近なものとなった電子メディアは電子メールだが、コンテクスト化の働きをこれにあてはめて考えるとおそらく多くのユーザー、特に若者が連想するのは絵文字、顔文字であろう。文字だけなら不平と読める内容も、絵/顔文字を使うことで、怒ってませんよ、冗談ですよ、などという解釈の枠組みを与えられる(以前から「(笑)」というシグナルは同様に用いられていた)。メールに限らず、文字によるコミュニケーションではコンテクスト化のための資源として声の調子や顔の表情を用いることができない。その代わりとなるものが必要とされるのである。
 一般に男性より女性の方が絵/顔文字を多用するようだが、筆者のインフォーマルな取材によれば、英語話者よりも日本語話者の方が絵/顔文字を多用するようである。タイプライターの伝統を持つ英語にも顔文字はある。筆者の知る限りでは横向きのもので(本誌は縦書きなのでそのまま見ればよい)、「:-)」(笑顔)や「:-(」(悲しい顔?)など比較的単純である。一方、日本では(こちらは縦)、「(^_^)」(笑顔)、「(^^;)」(苦笑い・冷や汗)、「m(_ _)m」(お辞儀)、「(T_T)(涙)」など、筆者が今この原稿を書くのに使っているATOK16にも40個の顔文字が搭載されている。「本当にいつもありがとうございます(*^^*) 」、「すみません…(;_;)」などのように主として文末に用いてコンテクスト化に用いられる。(2)
 
三 限定資源からの創造
 電子メールなどに見られる絵文字、顔文字はたんにコンテクスト化の機能を果たしているだけではない。絵/顔文字は味気ない文字だけのメールに潤いを与え、冷たくなりかねない文面に親しみや柔らかさを与える一種の文体のようなものであり、絵文字を使うこと自体がメール全体の語調を作り出している。ネット上に特有の表現群には、限定されたコミュニケーションの資源から新たなものを生み出そうとする遊戯的な創造性を見ることができる。キーボードに無機質的に並んでいる文字の中から記号を選んで組み合わせる創造には、真っ白のキャンバスにフリーハンドの絵を描くのとはまた違ったおもしろみがある。古くはホイジンガの「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」の論考、カイヨワの『遊びと人間』などにおいて(3)、遊びが文化創造に重要な役割を果たしてきたことは認識されていたが、一見情報伝達に関わらないこの遊戯性は、マリノウスキーの言う交話的やりとり(phatic communion)に通じるものかもしれない(4)。パソコンや携帯電話で使用可能な文字、記号を考えれば、ネット上のコミュニケーションのための資源は豊富とは言えない。仕事のためのメールや「大人」のメールの多くは情報伝達が主目的であるので、それでもだいたいの目的は達せられる。しかし、「若者」はメッセージを伝えるだけでなく、何か「おもしろいもの」、「かわいいもの」を付加したいと願う。それは女子中高生ら若者たちにとっては、大人によって与えられた規格に対するちょっとした反抗なのかもしれない。それによってネット上のパーソナリティや自己イメージを表示することにもなる。古より「文は人なり」というが、「メールではあの人そっけない」などとネット上の人物評がなされることもある
 先述のアスキーアートも限定資源からの創造の一例であるが、女子中高生が発信源と言われる「ギャル文字」もその例である。「げんご」を(横書きで)「レナ〃ω⊇〃」と表記したりする(ギャル文字変換サイトhttp://mizz.lolipop.jp/galmoji/による)。規格通りの文字を用いず、限定的な記号を組み合わせて独自の文字を創造しているのである(「げ」を「レナ〃」とするように)。また、小文字にできるひらがなを小文字にして「ぁりがとぅ」、「ぉはょぅ」などとすることもある。使用者に理由を問うても「かわいいから」程度の回答しか得られない。情報上の意味はほとんどなく、メール上の発話のモードや自己イメージにむしろ注意が向いているのだろう。情報伝達よりもそのようなメール上で構築される対人関係こそが重要なのである。
 
四 ネット方言
 サイバーコミュニティに参与者を向かわせるものは、ある種のコミュニティ感覚であるように思う。そこに人が集まっていると感じるのである。『電車男』には、たんなる書き込みの集合体以上の一体感がある。「荒らし」と呼ばれる、掲示板を乱す者もいるが、それは逆に言えば、コミュニティ感覚が存在することの表れであろう(ちなみに書籍『電車男』では「荒らし」や性描写は削除されているらしい)。ある社会集団が生まれると、そこにジャーゴンにようなことば遣いから方言とよぶべき段階まで様々な固有の言語表現群が発生するのはごく自然である。集団固有の表現群はウチにあるものの連帯を強め、ソトにあるものを時として排除する。
 「2ちゃんねる」のコミュニティ感覚を生み出す要因は様々にあるが、一つはその文体であろう。例えば、「2ちゃんねる」では、過度に丁寧な言い回しは敬遠される。相手を「おまいら」、「もまいら」(「おまえら」から)と呼び、自らを「漏れ」(「おれ」から。「俺も俺も」を誤打して「俺漏れも」になったことかららしい。誤変換については後述)と呼ぶ。丁寧すぎる書き込み手は十全な参与者になれない(仲間に入れない)。「空気が読めない」やつは「スルー」される(無視される)。
 「2ちゃんねる」は掲示板の中でも特に「住人」(常連)が支配的なので、新規に参与するのはなかなか難しい(筆者は未挑戦)。そのためのノウハウ本が出版されているほどである。社会言語学やコミュニケーションの民族誌などで問われるコミュニケーション能力が必要とされる状況の好例である。言語的(文法的な)能力はコミュニケーションの十全さを保証しない。いかに適切に振る舞うかが問題である。書き込みをするには「半年ほどROMしろ」と言われている(ROM=Read Only Member:読むだけで書き込まない人のこと)。
 ところで「2ちゃんねる」で生まれた語(ネット方言)のいくつかは文字の変換ミスや意図的な誤変換にその源がある。『電車男』で有名になった「毒男」は「独身男性」、「厨房」は「中坊」=「中学生のように子供じみたやつ」からきたものである。「がいしゅつ」(既出、既述の意。)は、「既出(きしゅつ)」の文字を出そうと「がいしゅつ」と入力して変換しようとしたが、変換されないためそのままひらがなで書き込んだのを、皆に馬鹿にされて広まった。「2ちゃん」ではないが、誤変換自体を楽しむ向きもある(「9日に後楽園」と「ここのカニ甲羅食えん」など。「ゆかいな誤変換---の見た秩序(http://www.dfnt.net/t/photo/your/gohenkan.shtml)」より。ヨシナガ『ゆかいな誤変換。』(イーストプレス)に書籍化)。また、視覚的イメージに基づく意図的な誤変換もある「スマソ(すまそ)」は「ン」の文字が「ソ」の文字に似ていることが利用されている。ちなみに、全角の「スマソ」より半角の「スマソ」の方がより深い反省をしているニュアンスになるという(すまなさそうに小さくなっている?)。類像(イコン)的な視覚イメージがコミュニケーションの資源として活用されいているのである。
 
五 変わる「書く」という営み
 サイバーコミュニケーションについては、社会言語学などにおいてもそれがどのようなコミュニケーション活動であるかを論ずる有効な枠組みをいまだに得られていないように思われる。むろん、発生したばかりのこれらの現象に結論めいたものを捻出しようとするのは時期尚早だろう。しかしながら、おそらく言えることは、サイバーコミュニケーションで生きる人たちにとって、「書く」という営みが画期的に変わろうとしているということだ。
 サイバーコミュニケーションが日本語にもたらした大きな変化の一つは、まぎれもなくATOKやMS-IMEなどの日本語変換システムである。もちろんそれが載っているパソコンやケータイの普及は重要だが、日本語そのものにとっては日本語変換システムの普及は画期的なことだった。アルファベットの書記体系を持つ言語にとって、文字とは基本的に「音の写し」であろう。一方、日本語はより多層的である。ひらがな、カタカナ、漢字という多層構造は、日本語変換システムという道具を得て、そのビジュアル性をより一層花開かせた。ネット言語の多くはビジュアルな方言である。
 電子メールは多くの人にとって、もはや生活に欠かせないものになった(5)。パソコンやケータイで書く電子メールは日本人の書くという営みを革新的に変えた。インターネット上には膨大な数の日記や掲示板も立ち上げられているが、言うまでもなくこれらもパソコンやケータイで書いている。『アエラ』2004年8月30日号(朝日新聞社)の「携帯で書くあたしブンガク」(足立菜穂子)の記事には、ケータイなどで書く行為が日常的になり、「とりあえず」ブンガク(「文学」ではないらしい)を書いて文学賞に応募する若者が増えている様子が描かれている。「有史以来、過去最高と言っていいくらい、現在は活字のコミュニケーションがさかんに行われている」という。
 日本語の使い手にとって大きな変化は、パソコン、ケータイ常用者の多くがすでに気づいているように、「読めるけど書けない漢字」が増えていることだ。読めなくても、「いいじゃん、入力ソフトが知っている」(6)という感覚はおそらく日本語変換システムユーザの多くにあるだろう。これはいわば、かつて日本語の書き手の脳にあった漢字知識が脳からパソコンやケータイに移植されつつあるということだ。有史以前、口承で様々な知識が他に伝えられていたであろう頃の人間の脳に蓄積されてきた一部は、文字の誕生によって紙や板などの上に移植された。今度は辞書的な知識すらも脳の外に出ることになった(7)。つまり、我々はサイボーグ化しつつあるということだ。ロボットやコンピュータが我々の脳の一部に組み込まれるというと、未来のSFの物語のように感じるかもしれないが、実はすでにもうその時が来ているのである。ただしその電脳は我々のポケットやバッグの中にある。
 このことの日本語使用者(「話者」という概念はもはや有効ではない)への影響はよくも悪くも様々にありうるが、おそらく言えることは、漢字は生き残る、ということだ。二〇〇四年、戸籍上の人名用漢字の範囲が見直され、使える漢字が増やされた。英語ブームといわれるこの時期にあって、むしろ漢字の使用は減らない様相である。日本語変換システムがあれば漢字を駆使することにそれほどの労力はいらない。ネット方言もそのような流れの中で見てもよいだろう。日本語は漢字仮名まじりを取り入れたことで、表記の多層性を備えた、ビジュアルな情報に比重が高い言語である。「可愛い」、「かわいい」、「カワイイ」、さらには「カワイイ」はそれぞれ異なった内包的意味がある。ネット上では、このビジュアル性を利用して若者たちが人間の本能にあると思われる遊戯的な欲求を強くコミュニケーションに表出させたと思われる。
 日々変化するサイバーコミュニケーションもつまるところは人間の生み出したものである。変わっているのは利用可能なコミュニケーションの資源であろう。ガンパーズは言語的、非言語的シグナルのコンテクスト化のプロセスを示したが、さらに発展させて、コンテクスト化の資源とコミュニケーションとの関わりを論ずる「コミュニケーションの生態学」とも呼ぶべき枠組みが必要であるように思う。本稿がそのきっかけの一つになればと願う。
 
(1)厳密には電子掲示板。BBSとも呼ばれる。書き込むとそこにアクセスしてくる人々全員に見えるようになる。そのメッセージに対してさらに掲示板に返答を書き込むことができ、それもまた公開される。特定のテーマなどを掲げていることが多い。「2ちゃんねる」は規模や知名度から言ってその代表格である。
(2)やや話がそれるが、もし日本語話者の方が英語話者よりも電子メールで絵文字・顔文字を多用するということが一般化できるなら、日本語話者の方が会話の中でコンテクスト化のシグナルを多用し、よりそれに依存するということが言えるかもしれない。
(3)ホイジンガ(1974)、カイヨワ(1990)。
(4)Malinowski (1923)。
(5)以下の論考は井上(2005)の一部を加筆修正したものである。
(6)篠原(2003)。
(7)Dennett (1996)、Gardenfors (2003)など参照。
 
参考文献
カイヨワ、ロジェ(1990)『遊びと人間』多田道太郎・塚崎 幹夫訳(講談社学術文庫)
Dennett, Daniel C. (1996) Kinds of minds. Basic Books. 土屋俊訳『心はどこにあるのか』草思社
Gardenfors, Peter. (2003) How Homo Became Sapiens: On the Evolution of Thinking. Oxford University Press. 井上逸兵訳『ヒトはいかにして知恵者(サピエンス)となったのか―思考の進化論』(研究社)
Gumperz, John. (1982) Discourse Strategies. Cambridge University Press. (邦訳『相互行為の社会言語学−ディスコースストラテジー』(井上逸兵・出原健一・花崎美紀・荒木瑞夫・多々良直弘訳)松柏社、2004年)
ホイジンガ、ヨハン(1974)『ホイジンガ選集1 ホモ・ルーデンス』里見元一郎訳(河出書房)
井上逸兵 (1999)『伝わるしくみと異文化間コミュニケーション』(南雲堂)
------------ (2005) 『ことばの生態系−コミュニケーションは何でできているか−』(慶應義塾大学出版会)
Malinowski, Bronislaw (1923) "The problem of meaning in primitive languages," Supplement to C. K. Ogden and I. A. Richards (eds.) The Meaning of Meaning. Routledge & Kegan Paul.
篠原一(2003)『電脳日本語論』(作品社))
 
井上逸兵の連載コラム、小論などのページにもどる
井上逸兵のホームにもどる