井上逸兵のひとりごと
 
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2007年3月1日号
 
きょうはカタめに
 
© Ippei INOUE
 
1日は映画千円の日。小市民も映画をご覧なさいとのお誘いを受けて、『チョムスキーとメディア−マニュファクチャリング・コンセント−』を見てみた。渋谷ユーロスペース。東京ではここしかやってない(ほか知らない)。いわゆるミニシアター系である。
 
ノーム・チョムスキーは、言語学をやるものにとっては言わずと知れた言語学の巨人(キョジンじゃないよ、キョン。比喩としては(読売の)キョジンでもあるが。ただし、かつての。今あんまり強くないし)。だが盛況とは言い難い館内には言語学徒とおぼしきヤカラはどうも見当たらない。臭いでわかる。それ特有の空気をまとっているものもいなかった。思想家・活動家としての方が有名なのだ。知ってはいたが、その比率にいささか驚いた。
 
一つ大いなる発見もした。主に言語学者としてチョムスキーを知るものはチョムスキーと「チョ」を高音で発音する(英語なら強勢)。ところが今日の映画館のアナウンスを聞いていても周囲の客たちの会話を盗み聞きしていても(大好き)、彼を主として活動家として知っている人たちは概してチョスキーと「ム」が高音になるのである(英語なら「ム」に強勢があるような発音、と言いたいところだが、残念ながらChomskyなので、母音のないmに強勢を置くことはできない)。これは大発見だ。今度、言語学系の学会で報告しておこう、酒の席で。
 
で、映画はというと、もちろん言語学者としてではなく、活動家としての彼を描いたドキュメンタリー映画である。「マニュファクチャリング・コンセント(Manufacturing Consent)」とは「世論の捏造」といったところで、アメリカのメディアが政府や大企業に利するようあるある大事典もびっくりの情報操作をやっているということをこんこんと訴えている講演やテレビ・ラジオのインタビューとそれに対する反応などをひたすらつなげたものである(なが!でも、おおざっぱに言って)。
 
メディアはニュースを選択する。事実ではないことは伝えないようにしているだろうが、都合の悪いことは触れなかったり、伝えないという選択ができる。それによってニュースの印象は全く異なることが往々にしてある。
 
こういう主張は実はチョムスキーだけがやってるわけじゃない。皮肉なことに、言語学の立場では彼と対極にあるクリティカルディスコース分析とかメディア研究とかがそういうことをずっと前から訴えている。ただし決定的に違うのは、彼が実際にその活動に激しく身を投じてきたということだ。逮捕歴もあることは初めて知った。
 
長い映画。途中で休憩が入る。トイレに行っておくべきと判断して、行ってみたらさすがユーロスペースだけあって、便器がフランス製っぽかった(よくわからんがParisと書いてあった)。しかし、自動洗浄装置はTOTO。日仏合作である。
 
トイレ体験も含めて、大きな時代の変わり目のうねりを感じた。この映画に先立つ宣伝の予告編を見ていても、ミニシアター系ということもあるが、実に様々な国の映画が生き生きとして見える。一方ハリウッドは不振。チョムスキーのこの映画も制作はカナダ(アメリカでは作れなかっただろう)。しかし1992年。これが今頃になって日本公開とは何を意味するだろうか。アメリカの時代の終焉と多文化時代を予感させないではおかない。
 
チョムスキーは1992年制作だけにオルタナティヴ・メディア(マスでない小メディア)の重要性を説くが、今ならインターネットメディアだろう。そうだ。このようなひとりごとも言語学者としての重要な発言となるのだ!世界に発信するのだ!(日本語読める人だけ)有意義な発言が満載なのだ!(そのはずだ)必読なのだ!(ヒマな人だけ)
 
ところで、今日映画が始まる直前にケータイの電源を切ろうとしたら、フリーズした。ケータイでもフリーズするのかと感心するのもつかの間、あわてふためいた。電源切れない!小生は気が小さいのでルールやマナー違反ができないのだ。割り込みも駐車違反もできない。電車の優先席付近でケータイ使えない。電源切れないので退出しようかとまで思い詰めてあたふたしたが、こっそり後ろから「電池はずしてみれば」と声がした。なるほど!振り返ったら、にこやかなおじさん。ちょっと言語学徒の臭いがした。
 
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